「全部”よかったこと”にしたい」病

ある新聞記事を紹介する下記のようなツイートを見て、すごく心が揺さぶられました。

河北新報という新聞の投書欄に載った文章のようです。書き手は東日本大震災の当事者の少女。「震災で絆ができた」とか「家族を大事にするようになった」と言う声に対して、「そんなものは震災前にだってあった。震災が起きたことに意味なんてない。起きない方が良かったに決まっている」と書き、「震災に意味付けをすること」を疑問視しています。

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肯定できない過去もある

私はこれまでに二度、組織で働きました。一つ目の仕事はSE、二つ目は、保育の現場での仕事でした。この二つは、労働環境が過酷と言われる日本の中でも、最もブラックと言われる業界です。

SE時代は、真夜中に朦朧とした状態で、ふらふらになって帰宅する日々。保育業界では、ストレスで過呼吸になった職員を放置する職場に幻滅し、「私はここで倒れたとしても、救急車を呼んではもらえないんだな。ここにいたら死ぬかもしれない」と思って、やめました。

そんなつらい日々の中でも確かに学んだことはありましたし、素晴らしい人との出会いなど、得たものはあります。でもだからといって、あの経験を、あの場所で働くという選択をしたことを、「よかった」と振り返ることは到底できません。

あんな経験は二度としたくないし、心から、もう他の誰にもしてほしくありません。新卒の学生に「やっぱり一度は大変な思いをして働く経験をした方がいい」などと言う気にもなれません。苦労して働くという経験を、一度もせずに人生を送れる方法があるのだとしたら、その方が絶対いいに決まっています。

「全部”よかったこと”にしたい」病

「過去の大変だったこと」について、「でも、あの経験が今こうして役に立っている」「貴重な経験だった」と言う人がいます。それは前向きな考え方だけれど、私は、そういう姿勢は「自分のこと」についてだけに限らなければと思っています。

人は自分が通った道を肯定したいものです。過去をポジティブにとらえることは、自分にとって気持ちがいいし、実際有益な姿勢だと思います。

ただ気をつけたいと思うのは、「どんなことも後から振り返れば貴重な学びや良い経験になるんだから」と言って、ブラック企業で働くことや、たった一人でのいわゆる「ワンオペ育児」などの苦行を、「良い経験」として肯定してしまう行為です。こういう、「全部”よかったこと”にしたい」病とでも言うべき考え方が、日本社会には無視できないレベルで存在すると感じます。

苦労やつらい経験に対して「意味がある」とか「学びがある」というのは、本人だけが言っていいことだと思います。他人の経験について「苦しかっただろうけど、学んだこともあったでしょ」とか「それも貴重な経験よ」と勝手に言い放つことは、してはいけない

何事にもポジティブな意味を見出すという姿勢には私も賛成なのですが、それを「他人の経験」にまで勝手に広げようとすると、何かがおかしくなってくる気がします。

「全部”よかったこと”にしたい」病の人は、「この選択は失敗だった」「これは起きない方がよかったことだ」と断じてしまうことを極力するまいとし、どんなことにもポジティブな意義を見出そうとします。

だけど「起きない方がよかったこと」は確かに存在すると思います。ダメなものはダメだったと潔く認める社会の方が、作り笑いで全て「いいこと」扱いする社会よりも健全に見えます。

中学のとき社会の先生が、「若い時の苦労は買ってでもしろという言葉があるが、あれは嘘だ。苦労はせん方がええに決まっとる」と言ったことがあって、私はその言葉を強烈に覚えています。

学校的価値観の世界では、作文を書けばどんなつらい経験でも「よかったです」「きつかったけど達成感があった」「皆との絆が深まった」などと書いて「いい話」にしなければならず、「全部”よかったこと”にすべき」という空気に支配されていました。

そんな中で「せん方がええに決まっとる」ことだってある、ということをキッパリと言い切ったその先生が、すごくかっこよく見えたのです。

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